個別セッション

ここでの個別セッションは

「考え方を渡していく」コーチングセッションです。

 

【相談内容例】 

 

経営戦略 組織構築 マネジメント リーダーシップ マーケティング 営業・交渉力人間関係構築 コミュニケーション能力 対話法 調和  就職、転職、キャリア形成 能力開発 魅力開発 意欲喚起 カウンセリング・コンサルスキルアップ 独立・開業 恋愛・結婚成就 パートナーシップ 価値創造、変化力向上 などに効果的です。 

 

 

 

根幹になる理論は「不理解感情論」をベースとしています。

 

一般的なカウンセリング(傾聴・心理学ベース)」とは全く違った視点のセッションとなります。

 

セッションには傾聴技法・心理学的解説も含まれていますがベースではないということです。

 

提案の根拠となるのが

 

【不理解感情・バランス(調和)】をベースに、下記3点に焦点を当てて進めていきます。

 

・不理解感情

「理解されていない誰かの感情

 

・危機回避

「本能的に危機回避している行動」

 

・セット

「無意識に設定している目標(セット)

 

 

 そして  セッションでは、「いかに効率よくレベルアップしてゆくか」を根底としていますので、一見、遠回りのように見えても、実際は「最高効率で進んでいる」状態を目指します。

 

「今起こっている出来事の本質は、全く違うところから連鎖的に起こっている」と考えると、物事は「ストレートで一貫した流れである」ことが理解できるようになります。

 

すると、今本当にやるべきこと、やれることが見つかったりします。

 

ですので、1回のセッションで、大きく流れが加速することが多くあります。

 

 

効率よく「今できる行動」を提案してゆきます。 

不理解感情論とは


不理解感情論とは

 

身の回りの出来事などから自分自身の不理解感情(理解できていない感情)を理解することで悩みの解消や問題解決、能力アップを目指すものです。。

 

自身の身の回りに起こる出来事は「不理解感情」が関係していると考えます。 

 

 

悩みや問題などのトラブルは 「何故そうなるのか解らない」「どうしたら解決出来るのか解らない」 「解っていてもどうしてもやってしまう」 

 

などといった事が多いのではないかと思います。

 

そういった「なぜそんな出来事が起るのか」を因果関係をより深掘りして理解する事で 「どうしたら解決出来るのか」が解るようになることを目的としています。。

 

 

不理解感情の因果関係

 

「誰かにした事が誰かから返ってくる」 

 

「誰かにされた事を 誰かにしたくなる」 

 

全ての出来事は不理解感情を理解する為に起っていると考えられます。  

 

 

 一般的に因果応報とは「行いそのものが返ってくる」と言われていますが、 

 ここでは、その出来事から自分に発生した感情が「誰の感情なのか」を考えていく事で問題解決に導いていきます。

 

 

『理解できていない感情を理解する事で「前提」が解消、変化する』これが基本的な考え方です。

 

 

この考え方が出来るようになると、相手を許す事が出来たり、受け入れやすくなったりします。 

 

更に、この「不理解感情の理解」が進むと物事を考える際に「主導権」が持てるようになります。

 

 

 

自己責任で考える事は「我慢する」「自分を責める」と言う訳では決してないと思います。 

 

「仕方無かった」 

 

「自然と受け入れる事が出来る・許せる」 

 

「解決策が見付かりポジティブになれる」 

 

「相手や問題に囚われない」 

 

そんな感覚だと思います。

 

 

「どうしても出来ない」「何故かやってしまう」「なかなか改善出来ない」・・・

 

などの事柄にとても効果が期待できると実感しています。

 

 

この考え方を使って「人生の良い流れを創る方法」をご提案させて頂けたらと思っています。  

不理解感情とは


不理解感情をここでは「カルマ」と表現することがあります。 

 

本来、カルマの意味合いとしては「行い」「行為」「業」「宿命」を指し、日本では「業」(ゴウ)と言います。

これは仏教の基本概念の1つでもあります。 

 

一般的には「過去世」「前世」などをカルマと呼んでいたりしますので、 スピリチュアル的、 オカルト的に捉えられ怪しいイメージがあったりしますが、 ここではそのような不確定要素の多いものは扱っていません。 宗教とも全く関係ありません。 

(むしろ論理思考の私にとっては、このような分野は苦手です・・・肯定的に捉えることが難しいからです。)

 

ここでは因果関係を深く探るために「因果応報(因果律)」を使用し考えていきます。 

 

 

 

因果応報と聞くと「自分の行いが返ってくる」と思われがちですが、 

 

実際は行いそのものが返ってくる訳ではなく、理解できていない気持ち(感情)を理解する為に出来事が起ると考えています。 

 

  

 

例えば、誰かを傷付けて「辛い想いをさせてしまった」とすると 

 

自分も「辛い想いをする事になる出来事が起る」という事になります。  

 

  

 

 その「理解されていない誰かの感情」を「不理解感情」と言います。 

 

  

不理解感情とは 

 

・他者の気持ちで自分が理解できていないもの 

 

・自分の気持ちで他者が理解できていないもの 

 

・自分の気持ちが自分自身で理解できていないもの 

 

  

 

 

 

つまりカルマを不理解感情とも言います。 

 

 

 

 

  

 

一般的に言われているメンタルブロック、トラウマなどもこのカルマの一部だと考えられます。

 

「何故だか分からないけどそうしてしまう・・・」

 

カルマが関連している出来事については、「思考力」「判断力」「客観性」が奪われてしまいます。 

 

 

・やらないほうがいいのについついやってしまう。 

 

・何故かそれが出来ない。 

 

・聞きたいけど聞けない。 

 

・言いたいけど言えない。 

 

・明らかにやってはいけないことをやってしまう。 

 

・同じ事をつい繰り返してしまう。 

 

 

などはカルマが原因となっているケースが多いように思われます。 

 

あなたの人生をコントロールしている「カルマ」を見つけて、良いカルマは才能として能力アップし、良くないカルマは理解して外していく事をセッションで行っていきます。 

参考:「仏教」から「業」について


 不理解感情論の基になっている考え方が「カルマ学」です。

「カルマ学」については、まだまだ私自身研究中のため、あくまで仏教と私自身の実感での考察であり、

この内容は随時、加筆、修正する可能性があります。

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「仏教から業についての考察」

 

 

インド思想を特徴づけるものに「業」と「輪廻」と「解脱」の思想があります。

ここでは「業について」を考察してみます。

 

 

 

業のサンスクリット語は「Karman」(カルマン)で「行為」を意味します。

 

特に祭式行為・儀礼行為を意味し、目的や願望を成就するために祈りを行って「ある種の力・エネルギーを得る」という考え方だと思われます。

 

(祭式行為とは神社参拝の「二礼二拍手一礼」のようなあくまで形式的な行為とされている。)

 

 

しかし、業の教えでは神の力を必要とない考え方であるため、自身の行為次第であるという思想であるゆえに、

 

祭式行為・儀礼行為から直接的に結果がもたらされるのではなく、祭式行為からある種の力・エネルギーが蓄えられ、

 

その力・エネルギーが別の機会に他の条件によって結果をもたらすと考えれています。

 

これは一般的に理解されている「徳を積むと良い結果が得られる」とことに繋がるのかもしれません。

 

また祭式行為が「祈り」を意味するのであれば、この「祈り」がある種の力・エネルギーを発生させるのではないかとも考えられます。

 

 

私はこの祈りを「信仰」「謙虚」「誠実」などに置き換えられるのではないかと考えています。

 

 

業の内容には代表的なものとして「身口意の三業」と呼ばれる「身業」「口業」「意業」の3つがあります。

 

「身業」とは身体的な行為を示し、

 

「口業」はことばによる言語表現、言語的な行為を示します。

 

(身業、口業は表業と解釈されることもある。)

 

「意業」は心のはたらき、つまり意志的・精神的行為のことを示し無表業と解釈されることもあるようです。

 

(座禅は業を積まない行為で輪廻を発生させず解脱に向かう行為と考えられている)

 

 

また、業の教えは、一般的に「因果応報」や「自業自得」として理解されているように「自己責任説」であり

 

「善行によって人は善くなり、悪行によって悪くなる」という教えと考えられています。

 

すべての行為の責任は自分にあり、原因を自分の行為に求めることによって「自分で道は開ける」という教えが業の教えになります。

 

これは、縁起説の「すべてのものには必ず原因がある」という考え方からも理解ができます。

 

 

 

 

一般的に因果応報とは「自分の行いが返ってくる」と理解されていますが

 

実際には「誰かに発生させた感情は自分に発生する」と考えることによって

 

カルマ学では「理解できていない感情を理解するために出来事が起こる」と考えていきます。

 

 

 

 

ちなみに「業の教えの秘密性」というものがあり、業の教えは封印された時代もあるようです。

 

これは当時の時代背景により、自己責任の考え方は神の存在を否定するかのような思想であり、

 

神の存在を認めている宗教においては危険な思想とされるからではないかと考えられます。

 

一生涯を通じて身分が変化しない時代において「自己責任」の教えは、非常に厳しい教えなのではないかと想像できますし、

 

貧しい生活を余儀なくされている人に「自己責任」を求めることは、あまりにも過酷な説法なのではないかと思うのです。

 

 

ゴーダマ・ブッタが本当に神とされる存在を認めていなかったかは不明でありますが、

 

祭式行為(祈り)の力はあるとするのであれば、自分自身の潜在的な力こそ神の力であり、自分自身の中に神がいることになるのかもしれません。

 

 

そして、業は煩悩から生まれると考えられ、そして業は輪廻に向かう力と理解され、輪廻から解脱に向かうとされています。

 

 

つまり、

 

煩悩から業をすることにより、輪廻を引き起こす力・エネルギーを発生させ、輪廻から解放されると解脱になる。という流れになるのではないでしょうか。

 

 

この流れを現代に生きる我々が理解するとしたら、

 

「煩悩は理性を持った人の葛藤」であり、

 

「業は自己責任意識を持った言動、祈りをすることによって徳を得る行為」であり、輪廻に向かう力が蓄えられる。

 

「輪廻は目的および自身が望む人生のあり方(現実の世界)」と捉えると、

 

それは「苦難を伴う人生そのもの」であり、「解脱は自己実現、自己の開放」と当てはめて考えると、

 

(輪廻は輪廻転生を連想しますが、前世・来世という不確定要素のあることはカルマ学では取り扱いません。) 

 

 

 

総じて業の教えは

 

 

 

「人は葛藤をしながら自己責任の言動を心掛け、謙虚や誠実さ、信仰を大切に苦難を伴う人生を受け入れながら生きていくことにより、自己の望む人生を生きられる」と考えられる。

 

これが業の「現実のあるがまま」という教えではないかと、現時点での私の考察とします。

 

 

 

つまり

 

カルマ学は、この前提をもとに理解を深めていく学問なのではないかと私自身、実感しています。